普通に生きたい。 今まで僕が当たり前のことのように権利として享受してきたことを 国策によってその資格を剥奪され、また強制的に社会から隔離された人々がいる。 僕はその人たちの存在をハンセン病療養所を訪れるまで知らなかった。 「普通に生きたい」とはそんな彼らの願いではないだろうか? 駿河療養所にある資料館を見学した時にまず最初に僕の目に入ったものは 白い布に書かれた赤い字の「不自由者」という文字だった。 それには他にもハンセン病患者の願いや訴えも書かれていたが、 僕はその四文字から目が離せなかった。 一体これはどんな思いで書かれたのか。 「不自由者」とは、果たして何から自由になれなかった人たちなのか? ハンセン病患者に対する社会の偏見や厳しい差別(スティグマ)からなのか、 国によって決められた自分の運命からなのか、 叶わなかった自身の願いからなのか。 僕はこの四文字には駿河療養所に暮らす人々だけでなく、 日本でハンセン病差別の犠牲者となった全ての人々の思いが込められていると思っている。 ハンセン病回復者の一人である白鳥さんの話し方は 不思議なほどに僕の古い親友のそれに似ていて、どこか懐かしさを覚えた。 僕と同じ丑年生まれの彼女は絶えず物腰柔らかで、 日夜好奇心と共にあるといった印象を受ける。 共に夕食を頂いた後は、一緒に外で花火を楽しんだ。 その後、普段は入れないであろう自身の部屋にみんなを招待してくれた。 これには感動した。 箪笥から切手で装飾された美しい箱をいくつも嬉しそうに僕たちに見せてくれる 白鳥さんの姿はまるで 友達を家に呼んだ時に自分の宝物を自慢げに見せびらかす少女のように 僕の目に映った。 それがこの企画の中で僕の胸が一番熱いものを感じた瞬間である。 最後に。 僕は今まで3度の松葉杖生活を経験した。 その時は常に周りのみんなが心配してくれて、 バスや電車では知らない人からも親切にしてもらったことを覚えている。 では、肉離れとハンセン病の違いは何だろう。 例え僕の左足が動かなくなっても僕は強制隔離や断種はされないし、 家族や友人はそのままだろう。 しかし一度ハンセン病に感染してしまうとその時の周囲の反応は大きく違うはずだ。 科学や情報伝達がより進歩した現代では 容易にハンセン病に対する正しい知識を得ることができるが、 正しい情報だけでは十分ではないと思う。 多くの正しい情報が飛び交う現代社会において 「知っている」ことは当然のことになるからだ。 これからを生きる私たちは知っている情報を 血の通った物にする必要があると私は思っている。 それには善き良心が必要であり、 ハンセン病の歴史を勉強することは則ちそれに直結することと私は信じている。 佐藤健士1997年東京生まれ、高校時代は沖縄で過ごしました。
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6月11日日曜日。 BURARIシリーズ第1回目が東村山市多磨全生園で行われ、 学生から社会人まで、様々なバックグラウンドをもつ人達が参加した。 記念すべき第1回目は、 路上でBURARI のロゴを作ることから始まり、 東村山市多摩全生園内にあるなごみ食堂での食事、 園内散策、資料館見学、快復者との対談、参加者同士での意見交換を通して 参加者各々がハンセン病について学んだ。 静閑な多磨全生園。 墓碑に掘られた「倶会一処」の文字。 孤独と寂しさを何度も口にするハンセン病回復者の方。 ハンセン病患者の方々が受けてきた差別は想像を絶するものであり、 快復した今でさえ苦しみ続けているという現状を目の当たりにした。 ツアー参加者は 「ハンセン病は病気自体が恐ろしく、取り返しのつかないものだと思っていたが、 今回のツアーに参加して、病気そのものより、取り巻く環境の方が重要だと感じた。 これからも差別・偏見を持たないように事実を求めていきたい。」 と感想を述べてくれた。 第1回目のツアーを通して、 私自身学んだこと、感じたことが多く、発信者として書きたいことが多々あるが、 個人的な意見となってしまう為、それは別の機会にしようと思う。 「人が歩んできた道を歩む。」 足跡が特徴的なBURARIのロゴにはそのような意味が込められている。 回復者の歩んできた人生を垣間見、 それを参加者全員で共有することで 多磨全生園に眠る御霊の反問を僅かながら感じることができたこのツアーは 意義あるものになったに違いない。 そして、これから BURARIシリーズは、ハンセン病問題を含め、 数ある社会問題に対して目的を持った若者達が ぶらりと集えるツアーとなるだろう。 |